哲分が足りない!

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幸せになりたくない人などいない

性別の在処

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性別の在処

性別問題の大半は思い込み!

今一度、自分の胸に問うてみよ!

 

なるべく結論から述べるようにしているが、

今回のお題は特に誤解を受けやすいかもしれない。

なので、最初に一番大事な事を断っておくので、

これが理解できない方は、以下を読んでも恐らく理解できまいと思う。

 

誤解を恐れずに言えば、

性別判断は肉体的なものを基準とするべきで、

精神的なものは自他による「性認識」でしかない

という事だ。

 

当然、昨今は性自認で多くの問題が起きている事は知っているし、

自分が脳やホルモンについて専門的な知識が無い事は承知している。

その上で、上記のように言わねば「理屈が通らない」からこそ、

このように述べた。

 

順番に、その根拠を述べていこうと思う。

まず、「心の性別」とはなんぞやという事だ。

身体は男性、心は女性、もしくはその逆等という話があるが、

その心の性別を判断する基準が何か、という疑問がある。

 

「こういう考え方をするから男性(女性)だ」というのであれば、

それは「そういう考え方をするのが男性(女性)」という認識があるからだ。

男性らしさ、女性らしさという概念は、

生まれ育った環境で育まれる「知識」の形でしかない。

 

男性が好きだから女性の心だというのであれば、それは既におかしい。

男性が好きな男性がいるのだから、それを指して女性というのであれば、

それは「男性が好きな男性を否定する」事になるではないか。

それこそ、根底に「異性を好きになるもの」という知識が根付いている証拠だ。

 

異性の方が気が合うし、話が合うから自分の性は体と違う、

というのも理屈として通らない。

同性であっても話が合わない事など多々あるにも関わらず、

「自分の性格、性質」の問題を「性自認」の問題にすり替えているのだ。

 

あえて古臭い言葉を使えば、

オカマが女性のように振舞うのは「自身の中の女性像」を表現しているだけで、

それはイコールで「女性」という事にはならないだろう。

心が女性なのではなく、心の中の理想の女性像に近づきたい、という思いだ。

理想の女性像への憧れを、自分の性別の是非と考える事が間違っている。

当然、逆もまた然り、という事は言うまでもない。

 

性自認が肉体と異なるという問題については、

それまでの人生経験で培われた「異性像」から基準が作られ、

また肉体と同性への「趣味の合わなさ」から始まった、

「性格の違い」を「自分の心は異性である」という突飛な理論で

片付けようとした結果である、と私は考えている。

 

私は当事者ではないが、自身の性別の在処などどうでも良い。

猫好き、犬好きがいるのと同様、異性、同性が好きな者がいて、

それ自体に特殊性も異物感も存在はしない。

あくまでその人自身の「個性、趣味」でしかないからだ。

「個性、趣味」であるからこそ、他人への認知の強要は良くない。

 

貴方がたの趣味趣向は尊重すべきではあるが、

それを生物としての構造としてまで優先する必要は無いと考える。

なので、当初に述べた「性別の判断は肉体を基準とするべき」というのは、

そういった理由からだ。

 

心が女性だから、男性だからと、生物的な仕組みまで変えてしまうという事は、

性差の無い世界が生まれるまでは、必ず問題が出てくるはずだ。

そして、性差の無い世界とは、男女共、性認識を意識しない世界のことだ。

それは、心が男性だ、女性だと言っている今とは真逆の世界だ。

「性別なんてどうでもいいでしょ。私はこう思う」

が普通でなければならないので、

今の人類の理解力では、あまりに遠い世界だといえよう。

 

身体と性自認が異なるという方は、是非早く目を覚まして欲しい。

貴方が声高に叫ぶほど、本来の「性差の無い世界」は遠ざかっていく。

貴方が叫ぶべきは「自分の心は身体と違うんだ!」ではなく、

「私はこれが好きで、これが嫌いなんだ!」という「自己主張」である。

 

違いを許容できる世界こそが、本来目指すべき未来なのである。

違いを強引に認めさせ、形を作り、異論を排除していては、

真に「違いを許容できる世界」はやってこない。

それは見た目上、形式上の異論をなくすだけで、心の内までは変わらない。

 

究極的には、自分以外は全て異物なのだ。

その異物を許容し、ある程度気の合う連中と共に在る事こそ、

人生を豊かにし、穏やかに過ごすことができるというものだ。

それ以外の人とムリにつながろうとしたり、認めさせようとするから、

苦しい状況が生まれてしまうのである。

性自認で苦しんでいる今の人々を苦しめているのは、

無理矢理世間に自分たちを認めさせようとする同類他ならない。

 

では何故、人々は声高に叫ぶのだろうか?

私にはそれは世間に対して「嫌わないで! 否定しないで!」という

悲痛な叫びにしか見て取れない。

それの何が問題かといえば、誰にも否定されない存在はいない

という生物多様性に不可欠な要素が根底にあるからだ。

 

否定されたくないから認めさせようとするのは間違いだ。

自分の中に、周囲の否定に自分が打ち勝てないという思いがあるからだろう。

周囲が否定してくると自分が揺らいでしまうから、集団で叫ぶのだ。

「自分を否定しない世の中になってくれ」と。

 

全てが理解しあえる世界、それは理想郷などでは決してない。

全てが自分と同じ世界など、地獄でもそんな薄気味悪い事はしない。

人は、他人との間に自分と異なる物を見出すから好きになるのだ。

他人と他人との間に、異なる物を見出すから特別に思えるのだ。

誰も特別にならない世界が素晴らしい世界だろうか?

全てが特別ではないという事は、貴方もまた、特別ではないのだ。

いてもいなくても同じ。代替はいくらでもいる。

そういう存在で満ち溢れる事が、理想郷であるハズがない。

しかし、今の人類はゆるりとその間違った理想郷へ進みだしている。

この過ちを認識しなければ、人は単細胞生物と同類になるだろう。

 

この問題を解決するには、順を追って認識を変容させていかねばならない。

 

1,性別の基準を肉体基準にすること

これによって、社会問題の大半は解決し、無駄な費用が消える。

 

2,性別の問題ではなく、自分の趣味趣向の問題と自認すること

性別が肉体と異なるのではなく、自分の趣味が周りと異なるだけなのだと考える事。

二次元が好きだというオタクは、自分の体が二次元で無い事を悲しみはするが、

「心は二次元にある! 二次元の存在を認めろ!」とは叫ばない。これと同様だ。

 

3,趣味趣向の話なのだから、受け入れられない人は必ずいること。そして受け入れられない人に、無理に認識を押し付けないこと

キモがられようが嫌われようが、それが自分の趣味なのだから仕方ない。

否定されることを恐れず、しかし恐れるような場では目立つ事はせず、

理解してくれる仲間内でのみ、十分に表現すればよい。

 

4,理解しあえぬ事を許容する事

最後になるが、これが最大のポイントでもある。

理解できないことは「理解できない事」として認識し、受容すること。

これをムリに理解しようとするから、無駄に苦しんでしまうのだ。

理解できなければそれで良い、という風潮を大事にしなければならぬ。

 

以上が、私の考える性自認についての考え方だ。

これについてはいくらでも反論、異論を待ちたいと思う。

しかし、異を唱える前にひとつだけ考えて欲しいのは、

「自分が男性(女性)と思っているのは、何が基準か?」

という点である。

この点を明確にせずにいては、話が先に進まないからだ。

 

おそらく、人類が上記の所まで認識を変容させる前に、

人は人としての形を失うのではないかと思ってもいる。

VR、ARといった技術の進歩によって、人は自分が思う姿になれるだろう。

結果として、自分の好きな時に性別や容姿を変えられるようになり、

性別という概念が無くなっていくだろう。

たどり着く先は結局「自分と相性の良い相手は誰か?」になる。

 

どちらの未来が先かは分からないが、

私自身の目でその世界が見られないであろう事は分かっているので、

それが少し、残念でもある。