哲分が足りない!

哲分が足りない!

幸せになりたくない人などいない

まだしばらくはムリ

お題「安楽死はアリか」

zeppekikun.hatenablog.com

今回書かせて頂いたのは、ぽうちゃろうさんからのお題です。

有り難う御座います。

 

まず結論から述べてしまうと、

人にその選択は早過ぎる、という事になる。

苦しまずに死ぬ手段を得るには、人間はまだまだ未熟な存在だからだ。

この結論に至るまでの考えを、以下に書いていこうと思う。

 

さて、人が人を殺してはいけない簡単な理由が何かといえば、

「他者に自分を殺す許可を与える事になり、生存に対して不利益が大きい為」

というものだ。生存第一、生きる事が大前提の生命らしい認識だ。

 

今回のテーマである「安楽死」とも相通じる所があるが、

最初に述べたように、「他者に自分を殺す許可を与える」事は、

生存に対する否定であり、生命の在り方としてあってはならない状況だ。

 

では何故、安楽死の議論などが起きるのだろうか?

まず、医療としての安楽死を考えていこう。

 

医療技術の発展により、動物としての機能を失いながらも、

人は生きながらえる術を手に入れた。

しかし、その際の痛みや維持費に人々が耐えられなくなった時、

治療の断念として「安楽死」という選択が出る。

少なくとも見た目上、苦痛なく人を殺す手段は存在する

 

しかし、その是非が問われてしまうのは、

「自分で選択できない」状態の人に対して、

「他者に殺す権利を与える」状況になってしまう所が、

最大の焦点なのではなかろうか。

 

例えば、その手段を医療行為でのみ使用可能と規制したらどうだろうか?

答えは否だろう。

現在でさえ麻薬を完全に取り締まることができないように、

安楽死の薬等があれば、それらが裏で取引されるのは想像に容易い。

  

加えて、「自己の存在の定義」についても問題になる。

「自分の意志を示せる」事が存在の定義とするならば、

認知症等で判断能力の落ちた人を人間と認めない事にもなるし、

判断能力の低い子供や老人に対して、作為的に安楽死を選択させる、

という事も理屈の上では可能となってしまう。

 

「一定の年齢を超えて、自己の意志を示せない物は人に非ず」

などという極端な考え方は、宗教的な縛りがあったとしても困難だろう。

自分知る限りではあるが、死刑に該当するような罪状としては、

・殺人を犯す

・信仰対象の否定、侮辱、裏切り

など、あくまで他者、信仰への反抗があって、初めて成り立つはずだ。

 

何を以て人間が人間であるか、その定義が常識レベルで定まるまでは、

安楽死を真に正当に行う事はムリだと思われる。

それでも、安楽死を望む声はある程度まで増え続けるだろう。

 

また、これはあくまで考え方の一つになるのだが、

モノは数が増えれば増えるほど、減る事への抵抗感が小さくなるように思う。

100円からの1円より、10,000円からの1円の価値を低く感じるように、

レアリティに応じて、モノの価値を高めるような思考傾向がある。

 

同様に、普段から自分の存在、影響の小ささを感じていて、

自身のレアリティが低いと考えていると、死に向かうハードルが低くなるだろう。

そこに苦しまずに生の辛さを回避する手段があれば、嬉々として選択するはずだ。

選択肢の少ない若者や老人であるほど、この傾向は増えるだろう。

 

安楽死という「諦め」が通じないからこそ、

苦しんだ人も多ければ、それを乗り越えて進歩に寄与して存在もある。

なればこそ、義手義足の人々が活躍する場が登場するなど、

現代の医療技術の発展があるはずだからだ。

 

以上の様々な考え方をまとめ、自分の行きついた答えというのがこれだ。

 

死は生命の途絶で、その先の可能性を奪う事でもあり、

現在はいずれの分野に於いても「自他による選択的死」を肯定する事はできない。

 

故に、安楽死を求める事は、人間にはまだ早過ぎる選択肢である。

 

安楽死という選択よりも、生きたいという意思を高められるような、

「安楽生」という選択ができる世界を、私は切に願う。

 

 

そういえば以前、十二指腸潰瘍で入院する事になった時、

ぶっとい内視鏡の管をノドに突っ込まれた事があった。

麻酔が全く効いておらず、常時オエッとなって非常に苦しんだ。

 

もし、あの状態が死ぬまで逃れられず、四六時中続くような事があったなら、

半日ともたずに発狂するか、安楽死という選択に飛びついただろう。

 

結局、ドクター・キリコのような非合法の人が存在する方が、

是非はともかく、なんのかんのバランスが取れるのかもしれぬ。