哲分が足りない!

哲分が足りない!

幸せになりたくない人などいない

何がしたいのか分からない時の対処法

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気付きに遅いは無い

自分が主役のスピンオフを作れ!

「主役」として言動せよ!

 

昔、こんな話を書いたことがある。

 

勇者が戦士や魔法使いなど、様々な仲間たちと出会い、

最後には魔王を倒すという話だ。

しかしそれは未来の話で、その光景を見せられたのは、まだ若者の頃の魔法使い。

自分が老人になるまで表舞台に立つ事が無いと知った彼は、

その後をどう生きていくのだろうか・・・というような話だ。

 

この場合、彼の世界には明確な「主人公」が存在しており、

自分が主役には決してなれない、という事が確定している。

では、そうなった時にはどう生きていけばいいのだろうか?

 

「自らが主人公ではない」という感覚を持ったまま生きていく事は、

自分の人生を自ら閉じているようなものである。

中には「目立ちたくない」「モブでいい」という人もあるだろうが、

では何故「目立ちたくない」のかを突き詰めていくと、

その大部分は「他人からの低評価を受けたくない」という

思いからではなかろうか?

 

ここで、生き方が「自分依存」か「他者依存」かが分かる。

生き方を他者に任せていると、言動の元が「他者基準」になってくる。

他者とは自分以外の全てだから、言動がバラバラなのは当然のことで、

結果、自分の言動もあやふやになり、確かなモノが無い、という状態になる。

 

もちろん、誰だって否定されるのはイヤなものだ。

他人に嫌われたいと思って行動する事はそうそうないだろう。

おそらくだが、そういった思考に陥ってしまう時には、

自分が他者に迷惑を掛けている実感とか、自分が否定されるイメージがあり、

それを避けるために、言動を他者基準に寄せ、他者を否定しないように

動いてしまうのではないかと思われる。

 

しかしながら、そういう相手ほど「自分基準」な言動をしているため、

「他者基準」で動く姿を「自分基準な自分と異なるモノ」として、

結局は否定する流れになってしまう。皮肉なものだ。

合わせて肯定しようとする程、

合わないと否定されてしまうのだから。

 

こちらからすれば、自分を曲げて相手に合わせてやったのに、

それを否定されるのだから、それ以上「どうすればいいのか分からない」状態になる。

こういった状況を重ねていくうちに、人は動けなくなってしまうのだろう。

結果、「自分が何をしたいのか分からない」となっていく。

 

そういった事態を避ける為にも、行動の基準を設ける事が大切だ。

この行動基準の事を、私は【人生哲学】と呼んでいる。

他者ではなく、自分の人生を基にした言動の土台となるのものなので、

それは紛れもなく他人の人生ではなく、自分の人生の言動となる。

 

では、具体的な方法を考えていこう。

まず第一に、他者とのしがらみから思考を切り離すことから始まる。

これは周辺の人に限らず、家族の存在も含まれる。

家族をないがしろにするなんて、と思う人もいるだろうし、

そんな事はできないと思うかもしれないが、家族とて他者に変わりはない。

 

ただ、その人の為に人生を尽くす事が正しいと思えるなら、

この項目を読む必要すらないはずだ。

既に「家族を大切にする」という自分の行動を取れているのだから、

そこに貴方の幸せが見えているに違いない。

 

しかし、そうでないのならば、「家族を大事にする」のは一般常識的な考えや、

周囲からの非難を恐れている事からくる、イイワケに過ぎない。

常識も周囲の非難も、貴方の人生にはなんら関係は無い。

そこに居て、それをしている貴方が不幸と感じているのであれば、

それは紛れもない事実なのだ。そこを否定するから不満が溜まるのである。

 

世間体より、自分の人生の充実、幸せを第一に考えなければいけない。

その為にまず、他者と自分とを切り離して考える必要があるのだ。

一人になった自分と向き合ったら、次は何もしないようにしよう。

 

勘違いされやすい事だが、この状態の時に「何かをしよう」とするのは間違いだ。

いわば、真っ暗な海に投げ出され、周囲が全く見えない状態に等しい。

そういう時に、焦ってあれこれやろうとしても体力を消耗したり、

間違った方向へ進んでしまう可能性が高い。

 

だからまず、自分をニュートラルな状態に戻してあげなければならない。

これを邪魔する存在はなるべく排除しなければいけないので、

できれば丸一日、誰からも干渉されない環境で行うのが良い。

最近は三、四千円もあればネットカフェ等でも24時間入れたりするので、

そういった場所を探して、とにかく一人きりの状態を作り出すことだ。

 

電話の電源を切り、耳栓もして、光もなるべく無い方がいい。

糖分を多めに摂っておくのも良いが、腹具合は空腹を感じない程度に抑えておく。

そうして誰からも邪魔されない状態になったら、目を閉じていこう。

 

暗闇の中では、色んな人の声ならざる声が聞こえてくるだろう。

こんな所でのんびりしていていいのか?

あれをやっていなかった、帰ったらあれをやらなければ、とか。

それらのほとんどは、周囲とのしがらみの声だ。

そして声の主は、自分だ。

 

自分の声で自分が締め付けられている事に気付くだろう。

そういった声達は貴方の言動を否定してくるだろうが、それにはこう返せばいい。

「そんな気分じゃない」

ありとあらゆる否定に対して、気分じゃない、気が乗らない、と返していこう。

反論する必要は無い。只々、貴方の気分が乗らないと返していけばいい。

非難の言葉や、面倒と思える事などを、全てこの言葉で覆していくのだ。

 

それを繰り返している内に、そんな声はどんどん小さくなっていく。

何を言っても「気分じゃない」と返されてしまえば、発展のしようがないからだ。

どんな社会規範も常識も関係なしに、貴方の気分を最上位に持っていく事。

これがこの対処法で、最も重要な要素なのである。

 

何事も有限なので、自分への苦情もひとつひとつ返していけば、

そのうちネタ切れになってしまうものだ。

苦情側があれこれ考えなくてはならないのに対し、こっちは一語で済む。

こんなに簡単で、優位な争いもないものだ。

 

これをしている内に寝てしまってもいい。

寝られるという事は、自分への否定を大半打ち消し終えたという事だ。

あれこれと頭の中で声がしている間は、とても眠れるものではない。

もし、寝てしまえたら、それは大成功といってもいい。

 

これを繰り返す中で、空腹を感じたら、軽く食事にする。

この時、あまり濃い味や刺激の強い物は避けよう。

「空腹を感じて食事をする」という行為を大事にするのだ。

生物として基本の行動を取る事で、ヒトが知性で抑えている部分を解放できる。

本能の声、引いては自分の声に耳を傾ける練習にもなるので、

これは普段から心掛け、実践するのも効果的だ。

 

この手法を繰り返しながら、思考の流れ方を変えていく。

他者基準のパターンから、自分基準のパターンへと移行していくのだ。

自分の気分で行動をしていけるようになると、

他者基準で行動を選択する事がバカバカしくなってくるはずだ。

 

ここで断っておきたいのは、「他者基準で行動しない」という点と、

「他者をないがしろにする」という事はイコールではないということだ。

自分の基準に則り、大切にしたい他者を選別していく、というのが正しい。

人の手には限界があるのだから、その全てを自分が助ける必要は無いのだ。

これを以て偽善というなら、自分をないがしろにする悪をどう説明するのか。

白黒でしか物事を判断できない相手の言う事など、聞くだけ時間の無駄だ。

 

閑話休題

そうして段々と自分基準で考えられるようになってくれば、

自分を害する相手と、自分を思ってくれる人の差が分かるようになってくる。

ここまでくると、無理に付き合う必要の無い相手と関わるという、

人生の無駄遣いが減ってくる。

結果、自分のために使える時間というのも増えてくるわけだ。

 

人生の無駄遣いを削っていくと同時に、人生の終わりについても思考しよう。

これについては、鬱々としている時に考えても良い方向には進まないので、

必ずこの時点に来てから考えて欲しい。

 

生とは、5分先どころか、1秒先の事さえも不確定の存在である。

生まれた瞬間から、いつか必ず死ぬ事だけは確定しているのがこの世界だ。

その当然の事実を、常に心の片隅に置いておかねばならない。

 

よく、エンディングノートだの、死ぬまでにやりたい事だのとあるが、

あれらは「老いてからではなく、今からやりたい事やっておけ」という、

共通のメッセージ性を持っているように思う。

老いの楽しみなぞとも言うが、老いたらアレやりたい、等と考えていて、

明日ポックリ死んでしまったら、なんともマヌケな話になってしまう。

 

結局、悔いの少ないように生きるしかないのだ。

いつか必ず来る死を意識する事は、自分の生の基準を見出すのに必要だ。

人は死からでしか、生を認識する事は出来ない。

死ぬ間際にアレやっとけば…などと考えなくていいように、

生きている今、この時からやり始めればいいのだ。

 

自分の呼吸がだんだんと浅くなり、鼓動が止まり、

体中から酸素が失われ、意識が眠る時のように暗い所へ流れていくが、

夢も見ず、意識と呼ばれるものが霧散していく死の在り方を、

私は時々思い出し、その恐怖に怯えるようにしている。

 

その怯えこそが生への執着であり、体からのメッセージだからだ。

明日死んでもいいように、後悔が少しでも無くなるように、

やりたい事は何か、それを自分に問いかけるのである。

 

私はその答えとして、自分が以前から興味はあったが、

様々な理由でできなかった事を見出した。

パソコン修理を覚える事や、姪、甥達を存分に可愛がってやること、

夕暮れの商店街を献立を考えながらブラつくことなど、

「自分らしい生き方」を見出す事に成功したのだ。

それは社会的地位よりも、大金を得る事よりも大事なことだった。

 

今では、四苦八苦しながらもラズパイをいじったりしているし、

プログラムに手を出しては挫折し、資格に手を出しては本を投げたりと、

うまくいく事ばかりではない。

しかし、うまくいく事が重要ではないのだ。

自分の人生を生きている、という実感を得る事が人生の幸福というものである。

 

少し長くなってしまったので、この辺りで終わろうと思う。

今回書き記した内容を実践できれば、行き先の分からない五里霧中の状態から、

自分の人生の地図くらいは見つけられると思う。

こんなにも大量の文字を読んだのだから、それくらいの報酬があってもいいはずだ。