哲分が足りない!

哲分が足りない!

幸せになりたくない人などいない

コロナ下での精神論

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コロナ下での精神論


他人に踊らされるな!

追い詰められた時にこそ人間性が出る!

我が身を振り返るのは今ぞ!

追記:あ、今回はやたら長くなっちゃった。ゴメン。気になる所だけ読んでね☆

 

2020年に大流行したコロナウィルスに、人々は振り回され続けている。

誰かが言っていたが、正に「ゾンビゲームあるあるの様相」になっている。

この喩えはやや不謹慎かもしれないが、割と的を射ている言葉だと思う。

 

つまり、「ウィルスなんて存在しない」と声高に叫ぶ人が現れたり、

人の多い場所から十人十色の形でゾンビになってしまい、感染が広がっていく。

その内、感染の疑いがある人を拒絶、弾圧する風潮が広まったり、

ゾンビの存在に宗教的な破滅の意味合いを求めるようになったりする。

こういった展開は、確かにゾンビ作品ではあるあるだと思うので、

「やってはいけない行動」を学ぶ教科書としては意外と悪くないのかもしれない。

 

さて、現実に戻ろう。

2020年末から、東京を中心に日本でも患者数が爆発的に増えてきた。

「新型コロナウイルス対策ダッシュボード」を自分はチェックしていたが、

入院を必要とする患者数に対しての病床数は10月末で25%だったものが、

11月末には55%にまで上昇している。

 

この50%という数字を超えた時点で、国は強い対策を打っていなかった。

これはもうダメだなと思った。

50%を超えたという事は、その同数以上の人数が外にいる可能性が高い。

加えて、対策の現場にいる人々の負担が大きくなり、通常業務が回らなくなる。

日本の体質は「通常時100%以上の運用」であるから余裕が無い。

強い対策を打たなければ、そこから感染が増えるばかりか、

日常的な対応がままならなくなる事は火を見るより明らかだった。

 

結果的に、自分の想像よりも、病床数を倍に増やすと言っていた政府の見込みよりも早く、たった1か月足らずの現在、247%という数字まで膨れ上がってしまった。

 

前置きが長くなってしまったが、こんな情勢だからこそ、精神論が肝要だ。

周囲に流されず、平穏に向けての最善の選択肢を選び取るためには、

個々人が選択し、決断し、実行していく必要がある。

 

では、平穏に向けての選択とは何か?

現状、感染を広げている人々にはいくつかのパターンがあると考えられる。

大分するとこんな感じになる。

 

①世間の混乱を喜ぶ者

②外に出る、または多人数で行う趣味を有する者

③コロナはただの風邪だと考えている者

④上記から感染したコロナを望まない者とその家族

 

①は、簡単に言えば、人の足を引っ張る事でしか自分が上に立つ方法を知らない弱者である。

一番厄介な人種だ。①の人物は、③のフリをしていたりする

世間的に地位が低いと感じていたり、虐げられていると感じている人は、

内心でトランプゲームの大富豪のような革命を求めている。

自分を虐げていた人々が混乱し、場合によっては自分が強者(加害者)側になれる――

そういった歪んだ優越感や自己肯定の手段として、

このコロナ環境下というのは絶好の逆転の機会なのである。

が、勘違いしているのは、この後、世界がどんなに変容しようとも、

足を引っ張る事しか知らない弱者に、日の光が当たる事は無い。

仮に当たったとしても、ほんの僅かな木漏れ日程度だろう。

今の状況とはさほど変わらない。

世界が変わっても、異世界に転生したとしても、ダメな思考の持ち主である限り、その者は主人公にはなれない。

実際、この手の人種は自覚も無く、救いようが無いので、関わらないに限る。

たぶん、これに値する人はここを読んでも理解できないだろうし、

自分を変えようとも思わないので、対応策はあえて書かない。

 

②の人物は、悪意はないものの、善意も無い

普段の生活でストレスを感じ、趣味でその発散をする事は悪い事ではない。

仲間と会う事で安心感も得られるし、自分が受容されていると感じるだろう。

友達100人いるんですって人は凄いとは思うけど、問題もある。

人数の増加と比例して、個人の色は薄まっていくからだ。

赤信号、皆で渡れば~の喩え通り、個人では行わないものでも、集団では変容する。

友人知人に囲まれている人は、薄まった己を見直す時が来たのだ。

最近、政治家が飲み会をしていたからといって、自分達も、という声があったらしい。

これは誰でも分かる、他者の言動を盾にした言い訳に過ぎない。

その人は普段から、その他者に心酔し、妄信していただろうか?

恐らく否だ。自分の都合よく他者の言動を利用しているに過ぎない。

そして、自分より上の立場の人間が行っている事だから必ず正しい、なんて事は無い。

物事の成否は誰が行うかではなく、何を行うかで判断すべきだろう。

そこで、内観という考え方をしてみよう。

これは心理学にも通じるもので、自分を深く見直し、自分の本音に耳を傾ける手法だ。

こと、友人知人、金銭など、何かしらを多く持っている人は、

その持っている数をステータスとして自他の価値判断をしてしまう。

しかし、自分以外に価値観を置いてしまうと、その価値の変動を自分でコントロールできない故に、自分を見失ってしまう事にもつながってくる。

結果的に、集団に薄められて自己を見失い、自分の本音に反する行動を取ったりする。

自分が本当は何を求めているのか?

それは他者を害したり、自分を害するものではないはずだ。

人も動物の一種なのだから、防衛本能はあれど、必要のない攻撃性は身につかない。

何かを害したいという思いには、必ず理由がある。

その理由を排除する事で、本当の自己実現へと至れるのである。

 

③は、最近は少なくなってきたが、これは只の危機感の薄い人か、

日常が壊れることを恐れ、平静を保つための強がりを言っている者だ。

恐らく、後者のパターンが多いのではなかろうか?

①のパターンとは真逆で、人は基本的に変化を求めてはいないから、

それがたとえ平穏であっても、劣悪な環境であっても、

慣れてしまうとその状況が変化する事への恐れが勝ってしまう。

端から見れば、ブラック企業で自殺する程追いつめられる人の事は、

「そんなにツラいならなんで辞めなかったの?」と思うだろう。

ニートに対しては「時限式の平穏だと分かっているのに自立しないの?」と思う。

ご意見ごもっともなのだが、そんな正論では覆せない恐れがあるのだ。

未知への不安、変化への不安は、自己防衛感の強い人ほど強く恐れを抱かせる。

それはもう、生理的な拒絶に近い。老人のスマホへの抵抗感にも勝る。

そんな変化する事への恐れを乗り越えるのは本当に難しい。

自分をちょっと打ち壊す覚悟を決めていかないと、これは変わらない。

もし、今の自分に不満で、自分を変えたいと思う人がいたら、

自分が忌避している事をあえてやるのがオススメだ。

もちろん、悪事を働けと言っているのではない。

大したことでなくとも、忌避している事は存外に多いものだ。

例えば、清廉潔白な純愛好きの男性は、風俗に足を踏み入れるなんて考えられないだろう。

初めての相手は互いに好き合い、結婚した人でなくては――と。

しかし、世界的にも風俗業が存在する以上、そこには何かがある。

その何かを知るためには、そこに足を踏み入れてみなくてはならない。

もし、自分を変える為にそこに一歩でも踏み出せれば、自己の変容は達成だ。

これはあくまで喩えの話なので、風俗業の是非や性別の問題は横に置く。

ただ、お値段一万円程度で自己の変容が叶うなら安いものだと思う。

結果として、自身がブレなけば自己肯定感も上がるし、違う世界も知れる。

何より、異なる世界を体験する事は、変化の受け入れを容易にする。

水の如く変化に対応できれば、不安感を減らす事にもつながるだろう。

不安を減らせれば、この世界は意外と生きやすいものだと分かる。

 

これらの人々が自分の見つめなおし、自身の行動を平穏に向けて変容する事で、

④の人々への感染の可能性を減らす事ができる。

しかしながら、特に今の日本には、それを主導できる人物がいない。

故に、形ばかりの緊急事態宣言などという仰々しい物を打ち出さねばならない。

色んな否定する理由は出てくるし、作れるだろうが、

一理が九理を否定する世の中であってはならない。

 

さて、こんなに長々とした文章を読んで頂けて、感謝の極みである。

最後に、コロナ下での精神論をもうひとつ、付け加えたい。

それは、「情報を調べ過ぎない」事である。

 

様々なメディアで、政治批判や思想を批判する声が見られるが、

そういった人々は、大抵、自分で自分の憎しみを助長している節がある。

なぜなら、人は「嫌いな物ほどよく見てしまう」からだ。

他人の好きな点より、嫌いな点の方が多く目につくように、

よほど意識的に行わない限り、人は嫌いな点につい意識が行ってしまう。

嫌いという感情は、それだけ強いのだ。

 

自分は芸能人の誰が結婚したとか不倫したとかには興味が無い。

どこの政党だとか、派閥だとかにも興味が無い。

故に、その人を特に嫌う理由もなければ、好きになる理由もない。

しかし、連日のようにメディアに上るのはどうだろうか?

他人の恋愛事情や、政治への不満など、否定的な話題に事欠かない。

加えて、それらを直接非難し、嫌悪し、声を上げる人々がいる。

その人々は対象に対して、実に多くの事を知り、語っている。

自分が嫌う人の事を、とても良く知ろうとしている。

これがそもそも、間違いの始まりなのだ。

自分が嫌いと思う物とは、距離を空けるのが正しい付き合い方だ。

 

しかし、悲しいかなそれはとても目につきやすい。

自分が嫌うものを目で追ってしまい、余計に嫌いになってしまうのだ。

この悪循環が生み出すものは、否定的な言動の過激化である。

その人個人への不満のはずが性別的な不満へ変わっていたりと、

問題の意味をどんどん広義化してしまい、ついには人そのものを憎んでしまう。

こうなると、本来の目的は忘れ、否定する事が目的になってしまう。

 

情報化社会は、人の一生では知り得ない程の情報量を津波の如くぶつけてくる。

人は自分に都合の良い情報を優先して獲得しようとしてしまい、またそれが嫌いなもの程目につくのだから性質が悪い。

自分に入ってくる情報量を制御するか、取捨選択を正しく行わなければ、

情報の波に呑まれ、情報に流されてしまうだろう。

 

ここでコロナの話題に戻る。

こういった性質を踏まえてみると、コロナを嫌い、否定したいほど、

コロナの情報に敏感になる事が分かると思う。

多くの情報が入ってきてしまうから、情報量の多さに疲弊してしまう。

これがいわゆる、コロナ疲れの正体、だと自分は考えている。

自分を例に出すのは参考資料としては弱いのだが、

コロナ感染が始まった当初から、自分は消毒用アルコールやマスクの性質を調べ上げたり、次亜塩素酸水を一から調べ上げたり、その有効性を判断した上で入手や分配に奔走したり、今も日々のコロナ関連のニュースに毎日耳目を傾けているが、コロナ疲れ、自粛疲れというものを感じたことは無い。

 

もちろん、もともとの性格や、職場や自宅等の環境要因もあるとは思うが、

自分としては、抱えられる情報量を精査し、取捨選択していることで、

自分が背負えない程の無駄なストレスを感じないよう対応していからだと思う。

本質的に憶病なので、全てを正面から受け止めようものなら、

家から一歩も出られず、誰かにすがり、震えて泣いているに違いないからだ。

 

コロナ疲れを感じているな、と思っている人は、

まず、コロナの情報から意識的に離れる事だ。

パチンコ好きの中ではよくある話だと思うが、

お金が無いからお店に行くのをやめて、動画を見て満足しようとする。

しかし、動画を見ている内に直接打ちたくなってしまい、

結局お店に足を運んでしまう――というものだ。

情報を得続けてしまう限り、意識が休まる事は無い。

 

となれば、方法はいくらかあるはずだ。

テレビやスマホという情報端末を利用する時間を減らし、

それ以外の事を楽しむ、という方法もある。

料理をしてもいいし、読書をしてもいい。

新たな情報ではなく、既存既知の情報の中に身を置き、楽しむことで、

情報過多の疲労感を減らす事ができるだろう。

情報は毒にもなる、という事は、意外と知られていない。

知っているだけ得をするという思い込みがあるのかもしれない。

何事も、取り過ぎはよくないということなのだ。

 

今回はテーマの裾野を広げてしまい、やたら長くなってしまった事をお詫びしたい。

情報過多が悪いと言ってるのに、大量の情報を垂れ流す矛盾を反省している。

しかし分けるのが難しい問題だったので、一気に書かせてもらった。

 

一応、太字部分だけでも分かるように心掛けてはいるので、

今後も情報量が多いなと感じたら、遠慮なく太字部分だけを読んで頂きたい。