哲分が足りない!

哲分が足りない!

幸せになりたくない人などいない

生き方は、死に方から逆算せよ

生き方は死から逆算せよ

生き方は死に方から逆算せよ


生きるの下手すぎ!

生き方が分からん!!

 

唐突な叫びから入らせてもらったけれど、

まず本編初回という事で、簡単かつシンプルな議題からやっていこうと思う。

 

タイトル通りの話になるけれど、自分の生き方が見えなくなった時は、

まず、【理想の死に方】から逆算してみるのが良い。

 

当然、実際の死に方は選ぶ事はできない。

ケガや病気、天災や事故など、死因はあらゆるものの周りにあふれている。

選ぶ事はできないが、「こうだったらいいな」と理想する事はできる。

 

「自宅の床の間で、家族に看取られながら死にたい」

 

「穏やかな風に吹かれ、本を読みながらこと切れたい」

 

例えばこういった理想を思い描いたとしよう。

前者の理想を叶えようと思ったら、そこにクリアしていくハードルが見えてくる。

 

・入院せずにいられる健康的な身体

・自分の最期を看取ろうと思ってくれる家族

・マイホームの一室であれば自分所有の家を持つ

 

などなど、具体的に必要となるモノが見えてくる。

ここを具体的に考えることが重要だ。

先ほどの例からすると、

健康的な身体を維持する生活をして、互いを大切に思える家族を得て、

自宅を買えるだけの経済力を身に着ける事が目標となる。

 

目標が見えたら、次は行動の見直しだ。

健康を維持するために食生活を正したり、運動をしよう。

互いに大切に思える人を探し、子供を大切にしよう。

健康を害さない働き方をして、夢のマイホーム談義に花を咲かそう。

 

単純に「健康のために運動しなくちゃ」と。

自分の理想の死に向かうため、「健康のために運動しなくちゃ」と。

こういった書き方をすると【意識高い系】だと揶揄される事もあるが、

正しくは【死を意識している系】の考え方なのである。

 

森羅万象、基本的にはいつか死ぬのだから、これを考えるのは当然の事だ。

ただ、現代はあまりにも死から離れ、死を意図的に見えないようにしている。

昔は隣のどこそこさんのじいちゃんが死んだとかが話に上り、

それこそ身の回りに生も死も存在している事が実感できていた。

個人や個性の権利主張が高まるにつれ、人々は自ら孤独になり、

遂には死がほとんど見えなくなり、生き方さえも見失ってしまった。

 

こんな現代だからこそ、死について考える時間が必要なのだ。

ただ、毎日いつか来る死の事ばかり考えていても鬱々とするだけなので、

たまに考えるくらいがちょうどいい。

 

自分の場合は、寝る間際などにふと思う事が多い。

睡眠時のように、視界が暗くなり、意識が薄れ、やがて鼓動を感じなくなる。

夢の中にいたとして、自分はどう感じるだろうかと思う。

夢の世界が暗くなり、全てが闇に消え、呼吸も止まり、思考も止まる――

 

そんな、自分が無になってしまう時は明日かもしれない。

一時間後かもしれない、五分後かもしれない。

死に対面した時、その生と死の一瞬のはざまで、

貴方は何を思うだろうか?

 

大体の人は、こうだろう。

もっと趣味に没頭していればよかった。

仕事よりも家族との時間を大切にすればよかった。

自由に生きればよかった。

(バカバカしい。だったら最初からそうしていればいいじゃないか)

 

 

そうなると分かっていながら、多くの人は動けない。

まるで「そういうものだ」と言わんばかりに苦渋を浮かべて生きている。

まるで「そうしないと生きられない」とでも教え込まれたかのように。

 

それは違う。逆なのだ。まるっきり逆なのだ。

中途半端な趣味や、金儲けや、好きな事に夢中になるあまり、

【自分の人生の本懐】から目を背けているだけだ。

貴方と似たような事は誰にでもできるが、

貴方のできる事は貴方の人生でしか成しえない。

 

もし、貴方が生き方が見えなくなっているのであれば、

今一度、死と真正面から向き合ってみてはどうだろうか?

幽霊の、正体見たり、枯れ尾花。

貴方が見えない生き方も、見方を変えてみれば、意外と難なく見つかるかもしれない。