哲分が足りない!

哲分が足りない!

幸せになりたくない人などいない

花粉症一年生に送る対策話(前編

お題「花粉症一年生へ」

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今年から花粉症になってしまった、

もしくは花粉症っぽいけど認めたくない貴方に贈る、

花粉症上級者からのアドバイスをまとめたいと思った今回のお題。

 

私は子供の頃から鼻詰まり気味で、口を塞がれただけで窒息するという有様だった。

やがてそれがハウスダストほぼ一年中の花粉症によるものと判明してから、

既に四半世紀以上を生きているので、花粉症上級者であると自負している。

 

とはいえ、医者に通う程のエリートでも無いので、

病院を使わない花粉症対策についてをまとめてみようと思い立った。

効果には個人差もあるだろうし、アレルギーは体質の問題なので、

効かなければ大人しく専門医に相談する事をオススメする。

 

 

1,家を出る前:花粉ブロックスプレー

2,家を出る前:BFE99%記載のあるマスク

3,出先:目薬は必携アイテム

4,帰宅時:衣服の花粉を落とす

5,自宅にて:加湿して、ドラムを回せ

 

 

 

1,家を出る前:花粉ブロックスプレー

 

家を出る前から戦いは始まっている。

というのも、花粉は日中帯にずっと飛び交っているので、

家を一歩出たその瞬間から、花粉を吸いこみまくってしまうからだ。

昨今の事情で皆マスクを常備しているが、やはり吸い込む事は防げない。

そこで、家を出る前に使いたいのがコレだ。

 

fumakilla.jp

 

元々はコロナ対策として「IHADA」と共に購入していたのだが、

コロナ対策としては効き目がイマイチ分からなかったので、

玄関にずっと放置されていたものだった。

ある時ふと、花粉対策にも使えると思い出して使ってみた所、

明らかに症状が軽くなったのだ。

 

自分はバイクで移動する事が多いのだが、そのまま運転していると、

乗り始めてすぐにノドがいがらっぽくなり、それが一晩中続くこともあった。

しかし、これをやってから出かけた時には、ノドのいがらっぽさも弱く、

それほど苦にならなかったという事がある。

 

もちろん、花粉の飛散量にもよるのだろうが、

個人的には効果アリとハッキリ感じる事が出来たので、

家を出る前と、職場から出る前などに使う事にしている。

 

 

 

2,家を出る前:BFE99%記載のあるマスク

 

花粉というのは、ごく小さいものである。

それを完全に防ぐのは難しいが、吸い込む量を減らす事ができれば、

体への影響を少なくすることもできるはずだ。

 

コロナ以降、マスクの質の問題も度々話題に上がっているので、

知っている方も多いかとは思うが、マスクにも性能基準が存在している。

ここでは分かりやすく、大雑把に分類を説明していく。

()内は、それぞれの大きさを表している。

 

・PFE:ウイルスを防ぐ性能(小)

・VEF:ウイルス飛沫を防ぐ性能(小~大)

・BFE:花粉を防ぐ性能(中)

 

こちらの記載には試験が存在し、それを通過した商品には、

大体パッケージに「BFE:99%」等の表記がされている。

表記の信頼性は正直よく分からないが、少なくとも参考にはなるので、

例えば下記のような商品を、私は選ばないようにしている。

 

www.amazon.co.jp

また、パッケージにでかでかと「99%遮断」とか記載があるのに、

どこにもBFEやPFEといった記載がない物は、

根拠の乏しい商品の可能性があるので、これも選ばないようにしている。

花粉対策、飛沫感染の予防という観点からも、

BFE,PFE99%カットのマスクを選択する事は、悪い事ではないはずだ。

 

 

さて、思わず長くなってしまったので、今回はここまでとしよう。

次回は後編として、残りを紹介していくつもりだ。

以前のベストバイみたいに長くならないよう、気を付けなければ・・・

マイお題:「在宅勤務でしている工夫」

お題「在宅勤務でしている工夫」

 今回のお題は、 みるまる (id:wmdtjapg0120)さんからお借りしました。

有り難う御座います。

 

コロナによって重い腰を蹴っ飛ばされた人々が、今、在宅勤務や、

リモートワークといった「新しい働き方」を実践している。

自分の周りでも在宅勤務に対する意見は賛否両論といった所で、

ずっと在宅でやりたいという人もいれば、

仕事を家に持ち込みたくないから絶対に出勤、という人もいる。

 

私は仕事柄、現地でないと対応できない状況も多いが、

基本的には「在宅勤務超推し」である。

「独り身」「個人事業主」「基本一人対応」と、チームワークが不要な環境でもあり、

加えて「趣味が仕事」「気分屋」なので、常にストレスの少ない自宅にいる事で、

精神的、体調的に健康を保ちやすい、というメリットを最大限享受できるからだ。

 

 

一般的なサラリーマンが働きやすく、在宅で働くための方法というのを、

自分の環境の中からいくつか抜粋してみようと思う。

仕事と言っても千差万別で、ひたすらキーボードを叩く仕事もあれば、

ひたすら電話をかけまくっているものもあるだろう。

そのいずれの場合でもなるだけ有効そうな物を考えてみた。

 

1,空調の最適化

空調環境というのは、仕事のコンディションに大きく影響してくる。

温度、湿度は当然として、香りや明るさ等も個々人の性格に応じて大きく変わる。

私の場合、エアコン,加湿器,加湿器,空気清浄機が全て同室にある。

これに加え、強い光も得意ではないため、カーテンは全て遮光一級の黒、

臭い対策に、無香空間の置き型とスプレー型を常備している。

 

夏場、冬場は電気代だけで2万円近く行く事もあるが、これも一つの投資だ。

快適な環境での生活は、生活内でのストレスを軽減する事ができる。

暑さや寒さは服装や諸々の対策グッズで対処すればいい、という意見もあるだろうが、

それをしないのは、ひとえに「面倒事を減らす」目的があるからだ。

 

服装を考えたり、体に何かを掛ける等していると、あらゆる動きが妨げられてしまう。

その時間がもったいないのだ。

 

小さなストレスも、積み重なれば大きな障害になるように、

スイッチひとつで問題を解決できるのであれば、それを使わない理由は無い。

加えて、強い香りや光を極力抑える事で、周囲からの刺激を減らし、

そちらに意識を向けなくて良い分、目の前の作業に集中できるというものだ。

 

 

 

2,環境音の遮断

上では空調について書いたが、これに加えて「音」も課題の一つだ。

家にいると仕事とは無関係な音が多く飛び込んでくる。

子供が公園で遊んでいる声、車の音、家族が見ているテレビ等、

音の発生は昼夜を問わないものだ。

 

そういった音の対策に良いのが、ノイズキャンセルヘッドフォンだ。

(以下、NCヘッドフォンと記載)

最近は安い物でもそれなりの性能を持っていて、これがあるとないでは段違いだ。

オンライン会議等をしている場合は、イヤホンマイクを使用し、

その上からNCヘッドフォンを使用するのが良い。

 

特に、文字を書いている時は、外から別の声や音が入ってくると、

それに引きずられて自分の書いているものが分からなくなる事がある。

周囲が静かになるだけで、作業への没入感はかなり深まるだろう。

以前紹介したNCヘッドフォンは、長時間使用しても疲れにくい為、

オススメとして載せておきたい。

vumi.hatenablog.jp

 

3,ネット環境の充実

自宅にパソコンが無いという人でも、スマホの為にネットを引いている、

という場合が多くなっている。

しかし、このネット環境がイマイチだと、これも効率の低下につながってくる。

 

基本的には光回線という名目の物ならなんでも良いのだが、

少し前に流行った「無制限Wi-Fi」やケーブルテレビなど、

速度の遅い回線を使用していると、ちょっとした調べ物にも時間がかかってしまう。

今や、ネットは巨大な辞書のような役割もあるので、

この辞書を引くのにいちいち動作が遅くては、話にならないのだ。

 

これは住宅環境によって変更できない場合もあるので、

改善のしようが無いという可能性もあるが、

「実は光回線が使えた」「大家さんに相談したらOKが出た」など、

実際に調べてみると光回線が使えるという可能性もあるので、

今の環境を考える際は、是非一度、見直してもらいたい。

 

また、少し話は変わってくるが、使用するパソコンにも同様の事が言える。

使用頻度が低いからとか、自分はパソコンが苦手だからと、

わざわざ安い、スペックの低いモノを使う人があるが、

これは大きな間違いである。

 

考えてもみてほしい。

周りが自転車で走っている環境で、貴方のペダルを回す速度が遅いとしよう。

遅いからといってママチャリに乗っていては、その差は開くばかりだ。

こんな時の正しい対処法は何か?

電動自転車に乗るとか、バイクに乗り換えればいいのである。

能力が低いなら、性能の良い武器を使う。

それを心掛けるだけで、仕事効率は良くなるだろう。

 

 

4,疲れたら休む

在宅勤務の最大のメリットは、ここにある。

仕事とは、椅子の前に座っている事ではない。

実績を上げる事が仕事である。

 

職場では、疲れたからといって横になる事はできない。

職場では、そこに入ってから出るまで、社会人としての姿勢でいる事を求められる。

それは疲れていようが落ち込んでいようが変わりない。

つまり、効率が落ちている状態でも「仕事中」の維持を求められるわけだ。

 

しかし、人は機械よりも繊細な存在だ。

失敗したり落ち込んだりで、その性能を出し切れない時が必ずある。

そんな時、職場ではせいぜいトイレか喫煙室に籠るのが精一杯だろう。

結局、「職場」という檻の中で休んでいるに過ぎない。

 

しかし、在宅であれば「自宅」という自分用の環境がある。

自分を休める為の環境がすぐ傍にあるのだから、これ程好都合な話も無い。

同じ5分休むでも、職場の椅子と自宅のベッドでは大きな違いになる。

もちろん、この為にベッド周りの環境を良くしておく事は言うまでもない。

効率良く休む事で、仕事への向き直り方も変わってくるだろう。

 

 

以上4つが、すぐにでも実践できそうな環境改善の手法だ。

在宅勤務にはもうひとつ、難敵である「孤独感」というものがあるが、

残念ながら私は、これを解消する手段という物を知らない。

一言も発さずに一日を終えるという事に、苦痛を覚えない性質なのだ。

つまるところ、わざわざ解消するという考えに至ったことが無いのである。

 

 

申し訳ないが、この点の解決方法は他を当たってほしい。

孤独を「自由」と言い換えられるようなれると、呼吸も楽になると思うのだが――

この点については、またいずれ、別の機会に語るとしよう。

吐き出しの作法

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言えばいいってもんじゃない

不満は吐き出さないと収まらない!

正しく吐いて心も守る!

 

不満を溜め込むのは心にも体にもよろしくない。

しかし、昨今ではこの不満の吐露でさえ、気を使う必要がある。

ネット上の公の場、つまりはSNS等で行う事で、

それは不必要に助長されたり、不満増大の原因になるからだ。

 

ネット上には様々な意見、立場の人間がいるので、

貴方に賛同する者、否定する者が必ずいる。

絶対にどちらかに偏る事は無い。

 

仮に、賛同を得たとしよう。

貴方の不満に賛同する者がいれば、

貴方は「自分の不満は正しい。支持されている。不満の解消は正義だ」と思う。

そして不満解消の為の言動が正しいと思い込み、言動が過激化していく。

 

逆に、否定されたらどうだろうか?

「自分はこんな不満を抱えているのに、何故分からない!」と、

周囲の不理解に不満を抱く事だろう。

「周囲の理解が足りないのは、周囲が愚かだからだ」と。

不満を感じているのは、本人には紛れもない事実であり、

それを誰とも知らない人に否定されるのだから、不満は増すばかりだ。

 

結局のところ、肯定されても否定されても同じ事なのだ。

それによって不満が解消されるわけではない。

しかし、最初にも書いた通り、不満は吐き出さなければ体に悪い。

そこで、吐き出しの作法というのが必要となる。

 

1,最初に「これは只のグチで、解決策を求めていない」と宣言する事

2,表現は、具体的な事実を並べる

3,個人の問題を全体の意見にしない

4,吐く相手、場所を選ぶ 

 

 それでは、順番に見ていこう。

 

1,最初に「これは只のグチで、解決策を求めていない」と宣言する事

これを告げずに「雰囲気で察して」とやるから失敗するのだ。

もし、最初に言い忘れてしまった時は、気付いた瞬間に謝罪しよう。

「ごめん、これはタダのグチなんだ。聞いて欲しかっただけ」と。

その一言だけで、グチに関する大半の問題は解決する。

 

 

2,表現は、具体的な事実を並べる

SNS等の公の場や友人に文面で愚痴を吐き出したい時は、

表現をあいまいにせず、具体的な事実を書き出す事を心掛けよう。

「あのコメンテーターがあの問題についてふざけた事言ってた! ムカツク!」

と、これでは何が問題で、何に怒りを感じているかが分からない。

 

例えばSNSに書き込むのであれば、

「あのコメンテーターがあの問題について、「アレコレ」と言ってた。

 でも、自分はこう思うからムカついた!

 今回はグチ吐きたかっただけなんで、スルーでお願いします!」

 

そう書いても絡んでくるような連中は、人の話も聞けない連中だ。

そういう人はどんどん無視して構わない。

先に述べたように、肯定でも否定でも、貴方の毒にしかならない。

 

 

3,個人の問題を全体の意見にしない

「これだから男ってヤツは」とか、個人レベルの話を全体に広げない事も重要だ。

血液型で考えてほしい。

血液型を理由にダメだと貴方が言われたら、それはおかしいと言うだろう。

それと同じ事で、個人レベルの話をその関係、周囲を含めた評価にしてはいけない。

 

同様に、周囲の評価を自分の評価と勘違いする点にも注意が必要だ。

有名人の友人がいるとか、会社の業績を自分の事のように語る人がいるが、

「で、今ここにいるアンタは何者なの?」という問いに答えられなくなる。

自己の存在価値を他者に依存している内は、自身の幸せなど見つかりはしない。

 

同様に、他者の価値をその周囲と同様に語る事は、偏見や誤解の元でしかない。

もっとも、類は友を呼ぶ、という言葉の通り、

同じような人種は集まりやすい傾向にあるから、これは絶対というわけではなく、

何かを語る時や、相対する時の心構え程度に考えておくのが良いだろう。

 

 

4,吐く相手、場所を選ぶ

友人だからと言って何を言ってもいいわけでは無いように、

愚痴も吐く相手、場所を選ぶ必要がある。

 

実を言えば、私がここに書いている理由も、そのひとつである。

自分のPCの中にだけ保存するのでは面白味もなく、

誰でも見られるが、誰にも見つからないような場所。

その感じが丁度良いので、ここで色々と書いている。

 

愚痴とは「多少なりと理解してくれる相手」に吐く傾向にあると思う。

結婚生活の愚痴を独り者にした所で、理解してもらうのは難しいだろう。

その物事を理解していない相手に話しても「へー、そーなんだー」が関の山だ。

これでは否定や肯定どころか、共感も得られない。愚痴にならないのだ。

 

その点、ネットというのは広大なもので、どこかしらに理解者がいて、

少なくとも共感してくれる相手がいる。

家族や友人に言いづらい内容であれば、ネットの方が懐が広いのだ。

 

また、基本的に愚痴というのは負担の押し付けてもあるので、

押し付けた相手の事はちゃんと労わってあげなければいけない。

愚痴を言ってこっちはスッキリ、相手は疲労困憊、なんてこともある。

 

 

以上4点を踏まえて愚痴るのであれば、自分にも他人にも良くなるだろう。

加えて、不満というのは喋る、書く以外の方法でも解消可能だ。

なに、バッティングセンターで打ち込めとか、穴を掘って叫べというのではない。

 

創作する事だ。

文章を書く、料理を作る、絵を描く、音楽を奏でる、歌う…

不満から生まれるエネルギーは大きい。

そのエネルギーでもって、自らの不満を表現するのだ。

 

これは上手い、下手を競っている物でもないから、気負う必要は無い。

色々と試してみて、自分が苦にならない方法を取ればよい。

私の場合は文字だったが、最近は動画編集の面白さも分かってきたので、

そのうち、そちらでも作ってみようと思っている。

 

そうして表現を作り上げていく内に、不満というのは溶け出していく。

作品としてどこかに提示する頃には、元の不満など忘れている事だろう。

不満というものは蓄積しても決して良い結果にはならないのだから、

日々、少しずつ消化していくのが良いのだ。

 

そうしていても抱えきれない程の不満があるようなら、

今、貴方の置かれている環境を変えなければならない。

不満の少ない場所、世界というのは必ずあるのだから。

まだしばらくはムリ

お題「安楽死はアリか」

zeppekikun.hatenablog.com

今回書かせて頂いたのは、ぽうちゃろうさんからのお題です。

有り難う御座います。

 

まず結論から述べてしまうと、

人にその選択は早過ぎる、という事になる。

苦しまずに死ぬ手段を得るには、人間はまだまだ未熟な存在だからだ。

この結論に至るまでの考えを、以下に書いていこうと思う。

 

さて、人が人を殺してはいけない簡単な理由が何かといえば、

「他者に自分を殺す許可を与える事になり、生存に対して不利益が大きい為」

というものだ。生存第一、生きる事が大前提の生命らしい認識だ。

 

今回のテーマである「安楽死」とも相通じる所があるが、

最初に述べたように、「他者に自分を殺す許可を与える」事は、

生存に対する否定であり、生命の在り方としてあってはならない状況だ。

 

では何故、安楽死の議論などが起きるのだろうか?

まず、医療としての安楽死を考えていこう。

 

医療技術の発展により、動物としての機能を失いながらも、

人は生きながらえる術を手に入れた。

しかし、その際の痛みや維持費に人々が耐えられなくなった時、

治療の断念として「安楽死」という選択が出る。

少なくとも見た目上、苦痛なく人を殺す手段は存在する

 

しかし、その是非が問われてしまうのは、

「自分で選択できない」状態の人に対して、

「他者に殺す権利を与える」状況になってしまう所が、

最大の焦点なのではなかろうか。

 

例えば、その手段を医療行為でのみ使用可能と規制したらどうだろうか?

答えは否だろう。

現在でさえ麻薬を完全に取り締まることができないように、

安楽死の薬等があれば、それらが裏で取引されるのは想像に容易い。

  

加えて、「自己の存在の定義」についても問題になる。

「自分の意志を示せる」事が存在の定義とするならば、

認知症等で判断能力の落ちた人を人間と認めない事にもなるし、

判断能力の低い子供や老人に対して、作為的に安楽死を選択させる、

という事も理屈の上では可能となってしまう。

 

「一定の年齢を超えて、自己の意志を示せない物は人に非ず」

などという極端な考え方は、宗教的な縛りがあったとしても困難だろう。

自分知る限りではあるが、死刑に該当するような罪状としては、

・殺人を犯す

・信仰対象の否定、侮辱、裏切り

など、あくまで他者、信仰への反抗があって、初めて成り立つはずだ。

 

何を以て人間が人間であるか、その定義が常識レベルで定まるまでは、

安楽死を真に正当に行う事はムリだと思われる。

それでも、安楽死を望む声はある程度まで増え続けるだろう。

 

また、これはあくまで考え方の一つになるのだが、

モノは数が増えれば増えるほど、減る事への抵抗感が小さくなるように思う。

100円からの1円より、10,000円からの1円の価値を低く感じるように、

レアリティに応じて、モノの価値を高めるような思考傾向がある。

 

同様に、普段から自分の存在、影響の小ささを感じていて、

自身のレアリティが低いと考えていると、死に向かうハードルが低くなるだろう。

そこに苦しまずに生の辛さを回避する手段があれば、嬉々として選択するはずだ。

選択肢の少ない若者や老人であるほど、この傾向は増えるだろう。

 

安楽死という「諦め」が通じないからこそ、

苦しんだ人も多ければ、それを乗り越えて進歩に寄与して存在もある。

なればこそ、義手義足の人々が活躍する場が登場するなど、

現代の医療技術の発展があるはずだからだ。

 

以上の様々な考え方をまとめ、自分の行きついた答えというのがこれだ。

 

死は生命の途絶で、その先の可能性を奪う事でもあり、

現在はいずれの分野に於いても「自他による選択的死」を肯定する事はできない。

 

故に、安楽死を求める事は、人間にはまだ早過ぎる選択肢である。

 

安楽死という選択よりも、生きたいという意思を高められるような、

「安楽生」という選択ができる世界を、私は切に願う。

 

 

そういえば以前、十二指腸潰瘍で入院する事になった時、

ぶっとい内視鏡の管をノドに突っ込まれた事があった。

麻酔が全く効いておらず、常時オエッとなって非常に苦しんだ。

 

もし、あの状態が死ぬまで逃れられず、四六時中続くような事があったなら、

半日ともたずに発狂するか、安楽死という選択に飛びついただろう。

 

結局、ドクター・キリコのような非合法の人が存在する方が、

是非はともかく、なんのかんのバランスが取れるのかもしれぬ。

哲分が足りない!

お題「 なんで、こんなブログタイトルなの?」

vumi.hatenablog.jp

実は、最初に書いた記事で大体語り切っているのだが、

今の時代が不安だ、という人々の中に、

「自分なりの人生哲学が無いからでは?」と感じたからである。

 

学業としてではなく、自分の人生を生きる指針としての哲学である。

カレーとラーメンが出てきたら、どっちを食べよう、という程度の話だ。

カレーとラーメンならばすぐに判断できる人も多いだろうが、

カレーはマトン、チキン、ビーフ、ポーク、野菜、豆、欧風、日式等々があり、

ラーメンは醤油、味噌、塩、トンコツ、二郎系、横浜家系、鳥白湯等々で、

当店のオススメはラーメンにカレーをぶっかけたカレーラーメンで…以下略。

さあ、ここから最善を選択せよと言われてしまうと、迷う所も多いだろう。

 

選択肢が多いと、逆に選べなくなるという心理学の話がある。

同様に、情報化社会で常に新しい、真偽の怪しい情報の濁流の内にあって、

そこから自分にとって最善を選ぶというのは相当に困難な話なのだ。

そういった状況下でも、自分に良い選択をする為に必要となるのが、

「自分の人生哲学」というものだと考えている。

 

この基準をメディアや他人などに任せてしまうと、

それが正しければ良いが、間違っていれば阿呆の踊りである。

作られた流行だとしても、それに奔走するのもまた楽しいとは思う。

しかし、翻弄されて疲れ切ってしまうというのでは話が変わる。

 

自分の哲学を持つという事は、自分の好みを把握している事でもある。

先ほどのカレーやラーメンの中からでも、今の自分の気持ちを理解し、

自分の正しいと思える選択をすることができるのだ。

 

思うに、この「選択基準」に迷う事が多く、不安を感じているのではなかろうか?

独身でいる方がいいのか? 結婚した方がいいのか?

出世した方がいいのか? 万年ヒラでいた方がいいのか?

様々な人生の問題に対し、これまでは自分の周囲くらいしか知る事はできなかった。

情報が少ない分、迷いも少なく、また諦める事もできただろう。

 

しかし、今はあらゆる角度から様々な意見が飛び交っており、

一面的に正しい事を、さも全面正しいという口調で語っていたりもするから、

結果、より良い条件や環境を比較的に求めてしまい、ドツボにはまるのである。

 

せめて、自分にとって何が正しく、何が間違っているのか?

何を選択すれば、後悔しない人生を送ることができるのか?

哲学成分の足りていない人々に、栄養補助食品程度になればという事で、

「哲分が足りない!」というタイトルにした。

 

もし、たった一人でも何かを感じ、よく生きるタシにしてもらえたなら、

自分がこの世に生まれた意味というのは、ソレかもしれない。

 

最後になりましたが、お題テーマを頂いた、

「考えよう派ブロガー」のケイエイチさん、有り難う御座いました。

kwsk.hatenablog.jp

何がしたいのか分からない時の対処法

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気付きに遅いは無い

自分が主役のスピンオフを作れ!

「主役」として言動せよ!

 

昔、こんな話を書いたことがある。

 

勇者が戦士や魔法使いなど、様々な仲間たちと出会い、

最後には魔王を倒すという話だ。

しかしそれは未来の話で、その光景を見せられたのは、まだ若者の頃の魔法使い。

自分が老人になるまで表舞台に立つ事が無いと知った彼は、

その後をどう生きていくのだろうか・・・というような話だ。

 

この場合、彼の世界には明確な「主人公」が存在しており、

自分が主役には決してなれない、という事が確定している。

では、そうなった時にはどう生きていけばいいのだろうか?

 

「自らが主人公ではない」という感覚を持ったまま生きていく事は、

自分の人生を自ら閉じているようなものである。

中には「目立ちたくない」「モブでいい」という人もあるだろうが、

では何故「目立ちたくない」のかを突き詰めていくと、

その大部分は「他人からの低評価を受けたくない」という

思いからではなかろうか?

 

ここで、生き方が「自分依存」か「他者依存」かが分かる。

生き方を他者に任せていると、言動の元が「他者基準」になってくる。

他者とは自分以外の全てだから、言動がバラバラなのは当然のことで、

結果、自分の言動もあやふやになり、確かなモノが無い、という状態になる。

 

もちろん、誰だって否定されるのはイヤなものだ。

他人に嫌われたいと思って行動する事はそうそうないだろう。

おそらくだが、そういった思考に陥ってしまう時には、

自分が他者に迷惑を掛けている実感とか、自分が否定されるイメージがあり、

それを避けるために、言動を他者基準に寄せ、他者を否定しないように

動いてしまうのではないかと思われる。

 

しかしながら、そういう相手ほど「自分基準」な言動をしているため、

「他者基準」で動く姿を「自分基準な自分と異なるモノ」として、

結局は否定する流れになってしまう。皮肉なものだ。

合わせて肯定しようとする程、

合わないと否定されてしまうのだから。

 

こちらからすれば、自分を曲げて相手に合わせてやったのに、

それを否定されるのだから、それ以上「どうすればいいのか分からない」状態になる。

こういった状況を重ねていくうちに、人は動けなくなってしまうのだろう。

結果、「自分が何をしたいのか分からない」となっていく。

 

そういった事態を避ける為にも、行動の基準を設ける事が大切だ。

この行動基準の事を、私は【人生哲学】と呼んでいる。

他者ではなく、自分の人生を基にした言動の土台となるのものなので、

それは紛れもなく他人の人生ではなく、自分の人生の言動となる。

 

では、具体的な方法を考えていこう。

まず第一に、他者とのしがらみから思考を切り離すことから始まる。

これは周辺の人に限らず、家族の存在も含まれる。

家族をないがしろにするなんて、と思う人もいるだろうし、

そんな事はできないと思うかもしれないが、家族とて他者に変わりはない。

 

ただ、その人の為に人生を尽くす事が正しいと思えるなら、

この項目を読む必要すらないはずだ。

既に「家族を大切にする」という自分の行動を取れているのだから、

そこに貴方の幸せが見えているに違いない。

 

しかし、そうでないのならば、「家族を大事にする」のは一般常識的な考えや、

周囲からの非難を恐れている事からくる、イイワケに過ぎない。

常識も周囲の非難も、貴方の人生にはなんら関係は無い。

そこに居て、それをしている貴方が不幸と感じているのであれば、

それは紛れもない事実なのだ。そこを否定するから不満が溜まるのである。

 

世間体より、自分の人生の充実、幸せを第一に考えなければいけない。

その為にまず、他者と自分とを切り離して考える必要があるのだ。

一人になった自分と向き合ったら、次は何もしないようにしよう。

 

勘違いされやすい事だが、この状態の時に「何かをしよう」とするのは間違いだ。

いわば、真っ暗な海に投げ出され、周囲が全く見えない状態に等しい。

そういう時に、焦ってあれこれやろうとしても体力を消耗したり、

間違った方向へ進んでしまう可能性が高い。

 

だからまず、自分をニュートラルな状態に戻してあげなければならない。

これを邪魔する存在はなるべく排除しなければいけないので、

できれば丸一日、誰からも干渉されない環境で行うのが良い。

最近は三、四千円もあればネットカフェ等でも24時間入れたりするので、

そういった場所を探して、とにかく一人きりの状態を作り出すことだ。

 

電話の電源を切り、耳栓もして、光もなるべく無い方がいい。

糖分を多めに摂っておくのも良いが、腹具合は空腹を感じない程度に抑えておく。

そうして誰からも邪魔されない状態になったら、目を閉じていこう。

 

暗闇の中では、色んな人の声ならざる声が聞こえてくるだろう。

こんな所でのんびりしていていいのか?

あれをやっていなかった、帰ったらあれをやらなければ、とか。

それらのほとんどは、周囲とのしがらみの声だ。

そして声の主は、自分だ。

 

自分の声で自分が締め付けられている事に気付くだろう。

そういった声達は貴方の言動を否定してくるだろうが、それにはこう返せばいい。

「そんな気分じゃない」

ありとあらゆる否定に対して、気分じゃない、気が乗らない、と返していこう。

反論する必要は無い。只々、貴方の気分が乗らないと返していけばいい。

非難の言葉や、面倒と思える事などを、全てこの言葉で覆していくのだ。

 

それを繰り返している内に、そんな声はどんどん小さくなっていく。

何を言っても「気分じゃない」と返されてしまえば、発展のしようがないからだ。

どんな社会規範も常識も関係なしに、貴方の気分を最上位に持っていく事。

これがこの対処法で、最も重要な要素なのである。

 

何事も有限なので、自分への苦情もひとつひとつ返していけば、

そのうちネタ切れになってしまうものだ。

苦情側があれこれ考えなくてはならないのに対し、こっちは一語で済む。

こんなに簡単で、優位な争いもないものだ。

 

これをしている内に寝てしまってもいい。

寝られるという事は、自分への否定を大半打ち消し終えたという事だ。

あれこれと頭の中で声がしている間は、とても眠れるものではない。

もし、寝てしまえたら、それは大成功といってもいい。

 

これを繰り返す中で、空腹を感じたら、軽く食事にする。

この時、あまり濃い味や刺激の強い物は避けよう。

「空腹を感じて食事をする」という行為を大事にするのだ。

生物として基本の行動を取る事で、ヒトが知性で抑えている部分を解放できる。

本能の声、引いては自分の声に耳を傾ける練習にもなるので、

これは普段から心掛け、実践するのも効果的だ。

 

この手法を繰り返しながら、思考の流れ方を変えていく。

他者基準のパターンから、自分基準のパターンへと移行していくのだ。

自分の気分で行動をしていけるようになると、

他者基準で行動を選択する事がバカバカしくなってくるはずだ。

 

ここで断っておきたいのは、「他者基準で行動しない」という点と、

「他者をないがしろにする」という事はイコールではないということだ。

自分の基準に則り、大切にしたい他者を選別していく、というのが正しい。

人の手には限界があるのだから、その全てを自分が助ける必要は無いのだ。

これを以て偽善というなら、自分をないがしろにする悪をどう説明するのか。

白黒でしか物事を判断できない相手の言う事など、聞くだけ時間の無駄だ。

 

閑話休題

そうして段々と自分基準で考えられるようになってくれば、

自分を害する相手と、自分を思ってくれる人の差が分かるようになってくる。

ここまでくると、無理に付き合う必要の無い相手と関わるという、

人生の無駄遣いが減ってくる。

結果、自分のために使える時間というのも増えてくるわけだ。

 

人生の無駄遣いを削っていくと同時に、人生の終わりについても思考しよう。

これについては、鬱々としている時に考えても良い方向には進まないので、

必ずこの時点に来てから考えて欲しい。

 

生とは、5分先どころか、1秒先の事さえも不確定の存在である。

生まれた瞬間から、いつか必ず死ぬ事だけは確定しているのがこの世界だ。

その当然の事実を、常に心の片隅に置いておかねばならない。

 

よく、エンディングノートだの、死ぬまでにやりたい事だのとあるが、

あれらは「老いてからではなく、今からやりたい事やっておけ」という、

共通のメッセージ性を持っているように思う。

老いの楽しみなぞとも言うが、老いたらアレやりたい、等と考えていて、

明日ポックリ死んでしまったら、なんともマヌケな話になってしまう。

 

結局、悔いの少ないように生きるしかないのだ。

いつか必ず来る死を意識する事は、自分の生の基準を見出すのに必要だ。

人は死からでしか、生を認識する事は出来ない。

死ぬ間際にアレやっとけば…などと考えなくていいように、

生きている今、この時からやり始めればいいのだ。

 

自分の呼吸がだんだんと浅くなり、鼓動が止まり、

体中から酸素が失われ、意識が眠る時のように暗い所へ流れていくが、

夢も見ず、意識と呼ばれるものが霧散していく死の在り方を、

私は時々思い出し、その恐怖に怯えるようにしている。

 

その怯えこそが生への執着であり、体からのメッセージだからだ。

明日死んでもいいように、後悔が少しでも無くなるように、

やりたい事は何か、それを自分に問いかけるのである。

 

私はその答えとして、自分が以前から興味はあったが、

様々な理由でできなかった事を見出した。

パソコン修理を覚える事や、姪、甥達を存分に可愛がってやること、

夕暮れの商店街を献立を考えながらブラつくことなど、

「自分らしい生き方」を見出す事に成功したのだ。

それは社会的地位よりも、大金を得る事よりも大事なことだった。

 

今では、四苦八苦しながらもラズパイをいじったりしているし、

プログラムに手を出しては挫折し、資格に手を出しては本を投げたりと、

うまくいく事ばかりではない。

しかし、うまくいく事が重要ではないのだ。

自分の人生を生きている、という実感を得る事が人生の幸福というものである。

 

少し長くなってしまったので、この辺りで終わろうと思う。

今回書き記した内容を実践できれば、行き先の分からない五里霧中の状態から、

自分の人生の地図くらいは見つけられると思う。

こんなにも大量の文字を読んだのだから、それくらいの報酬があってもいいはずだ。

ヒトよ、タダの動物であれ

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特別なモノなど存在しない

「特別」という価値観を持つのは危険!

人間の為に存在するモノなど一つもない!

 

端的に、人間という動物は雑食性であり、草食でも肉食でもない。

言ってみれば、草も肉も食わねば生きていけない動物なのだ。

牛が草を食べないとか、ライオンが肉を食わないとか、

そんな不自然な事をするのは人間位のものである。

 

技術の発展と共に管理できる要素が増え、結果として生活に余裕が生まれた。

私はその「余裕」にこそ、深い落とし穴が潜んでいるような気がしてならない。

ゆとりを生んだ自分に対し、自己評価が上がるのは当然だ。

しかし、評価と共に「存在価値」までも上げてしまうと、これが大問題だ。

 

モノの存在価値には、そもそも上下も優先順位もありはしない。

その時々の人々の価値観で勝手に順番が決められているだけで、

本質的な存在自体の差異など、一体誰に決められるというのだろうか?

 

しかし唯一、その存在を特別たらしめるモノが、人の中には存在する。

「神」と呼称されるモノが、人やその他に存在価値を定義する事ができる。

人知を超えた、とても優秀で、崇めるべき存在。そんな神の創造こそが、

人は動物であるという事を忘れさせてしまった原因だ。

 

神の存在については別に語るとして、

只の動物でしかない人間が、体の作りを否定した生き方をすることが、

果たして「自然な生き方」なのだろうか?

 

不自然な生き方をしたツケは、必ず体に返ってくる。

過剰に食べ過ぎたり、偏った食生活の弊害は、言わずもがなである。

動物が動物を食する事が悪であるはずがない。

そこに善悪を持ち込んでいるのは人間の仕業なのだ。

 

同様の問題として、昨今の性別問題も似たようなものだと思われる。

そもそも、男性とは何か、女性とは何かを論じている時点で、

その人の中にある男性と女性の性的役割という存在が、

意識の有無を問わず決まっている、という事ではないか。

 

「自分の心は男だ」という、女性の肉体を持つ人がいたとして、その人の中には、

「男とはこういうもの。だからこういう考え方をする自分は男に違いない」

という認識があるはずだ。

さもなければ、自分が男だと定義する事ができないからである。

 

それは同時に、男性の定義、女性の定義を固定する思想でもある。

おかしな話ではないか。

固定観念を打ち砕こうとする本人達が固定した思想の持ち主というワケだ。

この一面的な見方だけの性同一性などという問題提起について、

私は「ハナから存在しない問題」であり、

「自分の存在を承認できない」事が本当の問題点だと思っている。

 

同性が好きでも異性が好きでも構わないのだ。

動物を食べてもいい。草も食えばいい。

タダの動物はそんな事で苦しんだりはしない。

肉体に従って食べ、愛し合うだけのことだ。

その存在をそのまま受け入れる事が、

最大の幸福につながるのではないか。

 

人間は特別な存在などではない。特別である必要もない。

他の命を得る事でしか、地球生命は生きられないだけなのだ。

そんなくだらない事を問題にするな。

自分が何者であるか迷ったならば、

「タダの人間という動物」だと思えばいい。

 

人間を特別視しない事で解決する問題はかなり多いと思うのだが、どうだろうか?